プロフィール

― 初めまして、心理カウンセラーの永月みちるです―

私のプロフィールページに興味をもってくださって本当にありがとうございます

人間関係の中で傷つき、苦しんだ経験から私がカウンセラーを志した経緯までを綴らせていただきました。

一つの症例として、皆さんのお役に立てていただければ幸いです。

カウンセリングでは、お話を伺うことによりクライアントさんご自身のペースに合わせて心の傷を癒すことができます。 そしてご自身に対する思いやりを育むと共に、心身を回復させる力を養うメッソッドをぜひ手に入れていただきたいです。

目まぐるしく変わる現代の社会環境の中皆さまがよりよい未来を築いていかれることを信じております。

【プロフィール・目次 】

 ☯ 幼少期の心の傷

 ☯ 母との共依存関係 

 ☯ 職場でのハラスメント

 ☯ 理想どおりではなかった結婚生活 

 ☯ 娘の発達障害と父のうつ病診断

 ☯ 母の介護とみとり

 ☯ 心理学を学んだ私が、皆様にお伝えしたいこと

父 母 姉の四人家族の次女として、山陰の山間部に生まれました。雪で遊んだ思い出が沢山あります。

姉は身体が強い。IQが高い。スポーツ万能。それに比べて、わたしは生まれつき、発育性股関節形成不全(臼蓋形成不全)で生後三か月あたりから骨が形成されるまで足を革ベルトでガッチリ固定。母が姑の仕事の手伝いで忙しくしていたこともあり、わたしの乳児期は寝るばかりして母はとても助かっていたようです。    

わたしが五歳の時に市内に移り住み、初めて保育園(就学前教育)へ通いました。大人しかったため、自分の感情【怒り・悲しみなど】外に出せない子供でした。いじめられても全くやり返すことができなかったみたいです。                   

保育園帰りの お迎えの時、顔を叩かれても涙を浮かべて、じっと泣くのを耐えるのみ。一年の半分、熱を出しては保育園を欠席ばかりと聞きました。

いじめられていた記憶は、わたしの中にはワンシーンしか残っていません。遠足に備えて、新しく買ってもらった水筒の星形チャームを遠くに投げすてられて、探しても見つからなかったみじめな記憶。親から買ってもらって嬉しかったものを守れなかった思い出です。

小学校では、徐々に集団生活に慣れてきました。仲良くしてくれる子に嬉しくなって自分の大切なものをあげてしまい「全部あげなければ良かった」と後悔した記憶をよく覚えています。

保育園時代、いじめられたことによって、集団の中で自己主張することが極端に苦手自己犠牲によって、必要以上に他者に尽くしたり、喜ばせようとしていました。

私と母との共依存関係

私の母は終戦直後に生まれて、間もなくある女性のもとへ引き取られました。そして母が小学二年の時に、その育ての母は病気で亡くなりました。元々、貧しかったけれどさらに食事も満足に与えられず、居候していた家の子守りや手伝いなどで小学校すら通わせてもらえない学童期を過ごしたそうです。

わたしの父に出会って結婚するまで、母は天涯孤独だったために同級生達が高校や大学に通っている間、住み込みをしながら働いていました。母は学校こそ行っていませんでしたが、家事を完璧にこなし、姑と一緒に畑仕事をしていた母はまだ幼かった私からするとすごく頼りになる存在でした。

しかし、私が小学三年くらいから、父方の遺産争いによる親戚の不仲や、母の生き別れになった実の親を戸籍を頼りに連絡を取るも精神を患っていて、満足に会話を交わせる状態にありませんでした。母はただ、産みの母に幼いころ手放されても「自分は一人でも頑張って生き抜いてきたよ」と認めて欲しかっただけでした…けれども電話口での産みの母は昼間から酒に酔っぱらっていた口調だったと…その時の母の失望は大きく、心が深く傷ついてしまったのだと思います。

その後も姉が学校で、成績のいいのは「先生がひいきしているからだ」とやっかみによるいじめを受けたり、練習の厳しい部活動を母がやめさせたことによって、顧問の先生に嫌がらせを受けるなどがありました。

母はだんだんと家で不平不満ばかりを言うようになってきました。それは日増しにエスカレートしてイライラと怒るような性格に変わっていきました

脳は本来、疲れに強い特性があります。長年のストレスの蓄積により、徐々に疲れをため込み悪化していきます。 当時の嫌な思い出では、父が自分の兄弟達の前で、母のことを 「気が狂っている」と話していたこと。子供ながらに傷つきました。

母はパートに出るも 三年くらいするとリュウマチにかかってしまい仕事に出られなくなりました。父と母の不仲は続き 、私が高校生の頃は離婚するしないでしょっちゅう揉めていました。父は家庭と職場でフラストレーションたまり、この頃から臭覚異常が出ていました。

私が二十二歳の時に姉は、職場結婚して家を出ました。母は姉を取られたと思ったのか挨拶に来た義兄を追い返す始末。結局、結婚式に出席した姉側の親族は、わたし一人だけでした。

今だった判るのですが、わたし達家族には、もう第三者のサポートが必要でした。本当は父母ともに、とても優しい人達だったと思います。しかし悩みを相談できる相手が少なく、長期間にわたって不満増幅機と化した母を父一人では支えられなくなっていました

心の不調が体に影響する前に信頼できる方や、状況を俯瞰して見える専門家のサポートをぜひ受けてください。

叱ることが愛情表現になっていた人があなたの身近にはいませんでしたか。

わたしは同期入社の夫と結婚するまで、会計事務所で十一年間働きました。

所長先生は大変厳しく、毎日 これでもかというほど 叱られていました。しかし当時はパワハラなんて言葉もない時代。また学童期の親子関係を通して、私は『叱責』と『愛情』を混同する 思考パターンを身につけてしまっていたのです。

当時の私は、叱られることへの恐怖と、先生の期待に応えたいという気持ちが入り混じり、先生の言葉を鵜呑みにしていました。叱られるたびに「自分が悪いんだ」「もっと頑張らなくては」と自分を責め、言われたことをただただ受け入れるようになっていました。

今振り返れば、先生の指導は一方的で、私たちの気持ちに寄り添うような言葉はほとんどありませんでした。褒められることも稀で、常にどこか緊張感を強いられるような環境でした。頑張って期待に応えようとすればするほど、なぜか状況は悪化していきました。そしてわたしは幼少期に創った『インナーチャイルド』をどんどん強固なものにしていきました。


「叱られるうちが花」「愛の鞭」… 社会には、叱責を正当化する言葉が溢れています。それは本質的には暴力と変わりありません。どんなに言葉を飾り立てても、相手を傷つけ、自信を失わせるような言動は、決して愛情表現とは言えないでしょう。

もし批判を受容してしまう傾向がある方が、過去の経験に由来していることを認識できたなら、それが『癒しへの第一歩』につながります 。子供時代や過去の人間関係を振り返り、批判が蔓延していた事例と、当時それについてどのように感じたかを特定すること。それが支配と従属関係のパターンから抜け出すための重要なプロセスです。

ご自身で取り組まれる場合は、起きた出来事とそれに伴った感情を、まずは‘’三~四日間‘’日記につけてみてください。それは、思考を頭の外へ頭の書き出すことによって外へ日常の忙しさからご自身の感情を押し込めてしまいがちな方が、繰り返し自己の感情に向き合う時間を定期的にとるためです。その『出来事+感情』日記を振り返ることによって内省を深めることが非常に上手く出来ていきます。

内省を深める=思考を整理することによって、解決できなかったお悩みから解放されるルートを探しいかにご自身がくつろぎを感じられる時間と空間を大切にする必要があるかを感じていただけるようになります。

受けた批判が本当に自分のためであり、優しさと敬意をもって伝え整理たかどうかを検討してみてください。批判を受けたときは、その言葉の意図と影響を一時停止して考えます。

「この指導は本当に役立ち、支持的ですか、それとも侮辱的または支配的に感じますか?」と自問してみてください。

現在わたしのカウンセラー活動は、ハラスメントで辛い経験をされているクライアントさんの過去から続く「当たり前」の思考パターンをほどき、現実に変化をもたらすこと。

心理学のワークを使って「自分の考え」と「他者の考え」において明確な境界線を引くこと。

自分を大切にするとはどういうことか」を探求するこれはとによって「叱責」と「愛情」の迷宮から抜け出して、自己肯定感を高めるサポートをしています。

私は 三十一歳の時に 六年間お付き合いしていた同期の同僚と結婚しました。

結婚の条件は、主人の母との同居でした。

しかし、当時は出産間近の義姉夫婦が同居していたので、わたしの母が同居に反対。

結局わたしの実家の近くに、賃貸住宅で新婚生活を過ごすことになりました。

主人とは気心知れた長い付き合いだったので楽しく暮らせると期待していたのですが…

結婚したら、主人はわたしの誕生日も覚えていませんでした…

結婚記念日を祝ったこともありません…

閑散期にも職場から真っ直ぐ家には帰ってきません…

週末は姉の子供の世話に忙しい義母のお手伝いするために車で一時間する主人の実家へ帰る毎日。

義姉は年子のやんちゃな男の子に恵まれましたがストレスが多く不満をためていて、家事は義母と週末帰ってくるわたしに当然のように任せてきます。

結婚後の主人は「義母の願いを叶えてくれる嫁が欲しかった」ただそれだけ…のような生活でした。

 結婚てこんなものか…

「愛されていないんだな」

 母の言葉がますます私をさみしくさせます。

 主人とは入所当初から、長く一緒にいたけれど、交際期間では見えてこなかった?

いいえ、わたしが見極めようとしなっかった彼の生活実態を尊敬すること、愛することができなくなっていました。

結婚から六年後に、父の氏神神社へのお百度参りと不妊治療の末ようやく一人娘を授かりました。

もし主人の実家で同居生活を選んでいたら?

大家族の家事、息抜きにパート、町内会の掃除や、集会の当番と不妊治療する暇もなく、数年で体力がつき離婚していたと思います。まさに母の不安を的中させてしまいました。

わたしも主人も「親を安心させるために結婚しただけだったんだ」・・・

可愛い一人娘は授かりましたが、主人はわたしやわたしの実家のことは、聞く耳を持たない冷たさを感じました・・・

わたしは出産後二ヶ月の間、産後の日立ちが悪く当時三十七歳ではありましたが、そのまま早期の更年期障害になりました。父、母も次第に体調が弱り、特に父は幾つも病院をはしごするようになっていました。

娘の発達障害父のうつ病の診断

娘が一歳半の集団検診の時に、発達障害の可能性があると診断されました。

その後自閉症スペクトラムと診断されていました。そして二歳から六歳まで療育を受けていました。

娘の診断結果が出た直後、次に父が、病院からうつ病と診察されました。

父はその二年後に脳出血で亡くなるまで腰痛がひどく、抑うつ的な症状を患いながらも倒れる最後の日まで頑張って働きました。わたしは結婚してからも隣町に住んでいたので、亡くなる一か月前には、父から「もうダメかもしれない」と二度打ち明けられていました。

父が救急病院に搬送された日に、診ていただいた先生に優しく慰めてくださったのを覚えています。

「倒れてすぐ亡くなれる人は、実は本人も家族も両方楽なんですよ」と。

その四日後父は病院で息を引き取ります。

亡くなるまでの四日、遺されたわたしにとってはとても大切な思い出になりました。

母はその七年後に、顔の左半分に腫瘍が出来ました。

そして一年間の自宅介護の末に亡くなりました。

母は副鼻腔炎を慢性化させ耳鼻科で勧められた、人工的な微涙管の再建手術を断わったために、病院に治療拒否されました。

「放っておくと十年後にガン化する」と言われていたのですが、他の病院の耳鼻科治療でも回復の見込みは無く、途中で治療を断念。ガン化するとお医者さんに言われたことを本当に母は恐れていたのだと思います。

母の介護と看取り

新型コロナウイルス感染者がニュースになった年の二月に母と義理の母が同時に倒れました。

一歳半健診で発達障害の疑いがあると言われていた娘は、

娘が小学校へ入学したこのころから、わたしは母と少し離れるため以前から興味のあった心理学の勉強を開始しました。

そんなさなか母は体調不良のため極度の睡眠不足に陥ち入り、家事をしている最中に台所で倒れました。

わたしは、母からの電話で実家をのぞきにいってみると・・・母はポツンと椅子に座っていました。娘のハンバーグを作っていた最中眠気に襲われ倒れてしまい 二時間床をはって電話口に行き、わたしと姉に電話をかけたと言っていました。

病院にかかって欲しかったので説得しても頑として聞いてはもらえず・・・母は二ヶ月間風呂に入ることができませんでした。お見舞いに来た娘にも毛ジラミがうつり小学校の預かり保育の先生に発見されました。

母は病院を一度も受診しないまま自宅の中で歩行器で動けるようになりまたが・・・

ちょうど母が自宅で倒れた時に、義母の胃癌が病院で宣告されました。

主人方の実家の集まりで義姉に「私も癌を患っているから母の看病は無理、あなたのお母さんをとっとと病院にいれて同居してお母さんの面倒を見て」と責めたてられます。

子供と姉家族全員がいるリビングで大きな声で責められているわたしを見ても主人は無言のまま。「初めから皆の前で姉が私を怒鳴りつける計画だったんだな」と思いましたが、わたしは冷静を装いました。

その時みせた義母のなんとも言えない憎らしそうな顔、忘れられません。義母も母と同じく病院でガン宣告されてから一年後に亡くなってしまいました。

義母の病気と並行した状態でしたが、わたしの母は睡眠不足で倒れてから半年たっても、病院に行くことを拒否していました。何とか福祉サービスを利用させたいわたしは、民生委員の方や、地区の保健師さんに連絡をして事情を話しました。しかし、「お母さんが会いたくないのであれば私は家の中に入ることは出来ない」と保健師さんにはキッパリと話されてしまいました。

さすがに、この時ばかりは、母に対して業を煮やしましたが

母に子供への依存心を捨ててもらうには、足が立てなくなり介護がはじまってからではあまりにも遅すぎました

わたしの言う言葉も姉の言葉も全く受け付けない母の世話だけして過ごすのは本当に気詰まりに感じました。

主人の母が亡くなり四十九日の法要が終わる頃、わたしの母はますます食が細くなってきました。調剤薬局で漢方薬を買って試してみましたが病状にあっていないので、ますます具合が悪くなりました。夏休みの姉を呼んで、救急車をよび病院に運んでもらおうとしましたが救命士の方二人がかりで一時間説得してもらったのにもかかわらず・・・母は抵抗して頑として動かず、病院へ運んでもらうとが出来ませんでした。

その三日後、昏睡状態に陥った母を姉と姪、私の三人で病院に担ぎ込んで入院させました。

病院さえかかってくれればと思っていましたが・・・

当時面会が容易ではなかった、コロナ禍の病院に二週間後行ってみると

母の顔には大きな腫瘍があり、まるで悪夢を見ているようでした。病院に行きさえすれば良い方向に向かうと期待していたのに・・・

 たった二週間で・・・⁉

 病院側の説明はこうでした。

「母は普通の人だったらとっくに死んでいてもおかしくない重度の貧血状態だった。輸血したのは当然でこんな状態になる迄放っておくほうが悪い!!」といった内容の説明でした

もちろん勝手に輸血されたわけでもなく、輸血の承諾書にサインしています。

近所の救急病院は母が以前手術を断わっていた病院、当時の先生も資料もバッチリ残っていて、「十四年前から、ガン化すると説明していたのだから当然の結果です」と言い渡されました。輸血してからガンが活性化するなんて予測すら付きませんでした。

母は幼少期から低栄養状態でも生きられる身体になっていたようでした。

説明を聞いたのち「家に帰る!」と嫌がる母を無理やりに救急から一般リハビリ病棟へ転入院させてもらいました。 

その間にわたしは、大急ぎで賃貸住宅を引き払い子供と二人母を看病するために実家への引越を完了させました。

時を同じくして主人は職場を転職し、義母の亡くなった後の実家で「一人暮らしをする」と自ら決めて別居生活をスタートさせました。

母の皮膚を突き破ってでてくる腫瘍は強烈な匂いがするために、引っ越しの時に主人を全く引き止めなくても良かったと後日になって解りました。遅かれ早かれ主人は耐えられず別々に住んでいたと思います。

主人には、週末は娘を預かってもらう役目をお願いしていました。

我が家の引越しを慌ただしく完了させたのち、一ヶ月間入院した母を病院へ迎えに行きました。母は入院中腫瘍をがっちりと固定されていて薬を塗られるときに叫ぶ程の痛みがあったそうでした。

母は病院では、自分の腫瘍を鏡をみて確認していなかったそうです。

退院して帰宅した晩、鏡の前で大きな声で叫んでいました。

その時わたしは『母が病院で取乱さず、家で事実を確認して良かった』『病院で見ていたら恐ろしくて、きっと一ヶ月間入院どころではなかっただろう』と考えました。

今振り返って見ると何ぜ自分はそんなに冷静でいられたのか。

ちょうどその時は、娘は眠っていたけども・・・

わたしと母の極限の状況でも、一緒に暮らしていてくれていた娘がいたからでした。

退院後、母の主治医の先生は近所の内科の先生に変わりましたが、入院していた病院の外来で放射線治療を受けることができました。

握り拳くらいあった腫瘍も放射線治療が終わるくらいには表面からはかなりなくなったように見えていました。しかし「完全には取り切れてはいないよ」と説明されていました。

半月は落ち着いた日を過ごしていました。その間、病院のソーシャルワーカーさんや訪問看護師さんが家に来るなどが決まりました。ストレスからか、何かの弾みに母のむしゃくしゃが爆発しました。

その三日後、母の小さくなっていた腫瘍からガンの花が…ガンが皮膚の表面を突き破って出てきたので、近所の先生が往診にきてくださいました。その後「もう春までもたない」とわたしに余命宣告されました。そして「母の顔は崩れてしまう」とも、わたしは姉だけにしか先生の診断を打ち明けられませんでした。その日は12月25日でした。

年明けに姉が母を車椅子で氏神神社に連れて行ってくれました。

母が引いたおみくじに『病い早く治すのが吉』と書いてありました。母はそれを見てとても喜んでいたので、今でもおみくじを家に取っています。

母は病院に行って一つだけ良かったことがありました。

家で倒れてから一年八か月間外に出られていなかったのですが、車椅子で外に出られるようになりました。

春公園で娘と三人で花見をしたときに桜の木に青いカナリアがとまっていたのを覚えています。

母は顔から下はガンの転移がなくて、亡くなる一週間前迄食事がとれていました。最後まで体重が落ちなかったので、ベッドの隙間にはまったときには娘と二人がかりで、娘が主人に預けられているときに、夜中に洗面所で後向きに倒れたときには布団に乗せて引きずりながら運んでいたことを覚えています。

亡くなる一月前まで訪問介護士さんに週一から二回のペースで入浴介助をお願いしていました。最後の方は看護師さんも「ベッドでの洗髪にしてください」と、それを母が嫌がっていたのでわたしが度たび介護用の椅子で風呂迄運びシャワーしていたのを思いだします。

わたしは、医療従事者でもなんでもなかったので亡くなる一ヶ月前にいきなり母の力が弱くなってしまった理由も何なのか、ネット検索してみないとわかりませんでした。

もちろんわたしも最期は消耗戦になってしまい、病気の母に優しく出来るときばかりではありませんでした。

娘の夏休みが終わり二週間後、九月中旬に母は自宅で延命措置をせず息を引き取りました。

わたしの母は、育ての親をまだ小学二年の時にたった一人で看取りました。

「最期は呼吸が吸えなくてずっと苦しそうだったけどわたしには何も出来なかった」と言ってました。

わたしの母も亡くなる前は、呼吸が苦しく家庭用の酸素吸入器をつけていました。

そしてわたしも母の最期は一人きりでした。もう一週間前から、手も足もわずかしか動かず、声さえでなくなっていましたが、わたしがベランダで干し物をしているとき、母の絶命が聞こえてきました。

言葉にはならなかった大きな叫び声

もしかすると苦しみの断末魔だったかもしれない

わたしは、母のもろもろの死亡の手続きが終わるころに、母が最期に言い残したかったであろう言葉を探していました。

いつもは見たことのないブログ

そのブログの内容は、ブログ主さんが引いたおみくじの内容でした。

生きるとは 一人の作業である
どんな境遇にあろうとも揺るがない
自分だけの生き方を見つけなさい

効率よくやろうと思わず
己の心と真剣に向き合い
たった一度の人生を
力強く生き抜きなさい

私は、勝手にこの言葉をを母の遺言だと決めました。

姉と後日、母の介護を振り返ったときに、

「訪問看護士さんたち最後は、本当に迷惑がってたよね。ホスピスはいらんかったからな」と私が言ったら

「お母さんも最後の方は家に訪問看護師さん達を受け入れて、一緒に頑張ったと思うよ」と姉は言いました。

亡くなる前にやっとでしたが、苦しいときに第三者に助けを求められなかった母の成長だったと思っています。

幼少期に生育環境が悪いと、様々な要因が複雑に絡み合い、人を信じたり助けを求めたりすることがとても難しくなります。

わたしの人生の第一ステージの幕は、母を何とか看取ることによって降りました。

弱さでこそつながれる人たちがいる 母が身をもっておしえてくれたことだったのですね。


 
 

「まさか、あの時の経験が、今の私の強みに変わるなんて…

もし、あなたが今、過去の経験に囚われ、前に進むことにためらいを感じているなら、少しだけ私の話を聞いてください。

私はコミュニケーションの楽しさ、人との繋がりの大切さを学びました。

一見すると、マイナスに思える経験かもしれません。でも、これらの経験があったからこそ、私は人の痛みに寄り添い、多様な価値観を理解できるカウンセラーになることができました。

なぜ、過去のネガティブな経験が、今の私の強みになっているのか?

それは、「人生に起こるすべての事を生かし、生きる力に変える」と決めたからです。どんな経験も、ありのまま受け入れ、認めることで、それはあなたの血となり肉となります。過去の傷や痛みは、未来への推進力に変えることができるのです。

もしあなたが、

人間関係や厳しい環境で悩んでいる

過去の経験に苦しんでいる

自分の弱みだと思っている部分がある

変わりたいけど、どうすればいいかわからない

そう感じているなら、ぜひ一度、私にご相談ください。

経験を持つ私だからこそ、あなたのな経験に寄り添い、それを「生きる力」に変えるお手伝いができると信じています。

私が共依存やパワハラの問題に特化しているのは、過去の人間関係における苦しみや葛藤を深く理解しているからです。誰かに依存してしまう辛さ、理不尽な力関係の中で感じる絶望感。そうした経験を持つあなただからこそ、私の言葉が深く響くのではないでしょうか。

「人生がもたらす全てを受け取る覚悟」を持つことで、あなたは必ず変われます。過去の経験を乗り越え、自分らしく輝く未来を一緒に見つけませんか?

まずは一歩、勇気を出してご連絡ください。あなたの経験が、あなたの特別な力になることを、私は知っています。

共依存・パワハラ専門カウンセラー